一般社団法人 徳島県建設業協会

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青年部 主な事業Blog

「新しい産業社会と建設業」(講師:青山学院大学経営学部教授 東海幹夫氏)

2019.08.02

(社)徳島県建設業協会青年部 記念講演から

青山学院大学経営学部教授
東海 幹夫

ただいまご丁重なご紹介をいただきました青山学院大学の東海幹夫でございます。 本日は、浅学非才の身には少し荷の重いテーマではございますが、「新しい産業 社会と建設業」と題して、お話をさせていただきます。

■ はじめに“戦後はいつ終わったのか”
青山学院大学経営学部教授 東海 幹夫
青山学院大学経営学部教授
東海 幹夫

 思えば、昭和30年代から、何か事あるごとに、“戦後は終わった”という言葉を聞いてまいりましたが、様々な観点から判断してみますと、それが本当の意味で実感されるのは、今ではないでしょうか。はじめに、そのような私の見方を述べさせていただきましょう。
 私は昭和19年の生まれですから、第二次世界大戦のことを体感として知る年齢ではありません。しかしながら、戦前と戦後のあまりにも激しい環境変化の過程は、まざまざと見せつけられてきました。そんな中で、昭和30年頃、ちょうど朝鮮動乱が終息して景気が落ち着いた頃、早くも「戦後は終わった」の言葉が聞かれました。さらに、昭和39年、東京オリンピックが開催され、高速道路や新幹線といった新たな交通インフラが建設された頃、再び同じ言葉を聞いたような気がします。近くは、オイルショックをはじめとする各種の経済ショックに耐えた日本経済の姿を見て、多くの方々が「戦後は終わった」と評されたように思います。また、政治的には、いわゆる55年体制の終焉によって同様の表現が聞かれました。 全くの私見で恐縮ですが、総合的な観点から、その言葉に実感をもてるのは、まさに今ではないかと思うのです。それは、日本企業が、本質的に、旧来型の経営理念とシステムを容易に継続することを許されない社会環境にあるということを、多くの企業経営関係者が一致した認識として、今こそ共有されていると思うからです。バブルというものは、いわば戦後のもたらした最後の病理現象であったように思います。
 わが国の経済社会は、今や、戦後的旧体質から脱皮して、200年に向け、さらに21世紀に向けて、新たな経済システムに基づく産業構造を再構築していかなければなりません。本日は、日々生々しい現場で企業経営に携わる皆様ばかりですので、あえて経済社会と申し上げましたが、これは、決して企業だけに求められた観念ではありません。地域社会や個々の家庭、そして個人一人一人も、これからどう進んでいくべきか、地に足をしっかりとくっつけて考えていくべき課題と考えます。別言すれば、まさに今の時期が、これまでの価値観、世界観、そしてそれに基づいて形成された各種システムを大掛かりに見直すべき時と思います。

■ 1.新産業社会への変容

 これからの産業社会がどのように変容していくかについては、皆様一人一人が、ご自身の眼と頭でしっかりと見据えてください。私が、それはこれとこれだよ、などと押し付けてお話することは、その力もありませんし、適切ではありません。ただ、本日は、折角の機会でございますから、私のわずかばかりの経験の中から見聞し思考し、感じ取ったものを素直にお話させていただき、皆様の議論の材料にしていただくつもりでございます。

■ (1)マルチメディア社会

 まず第1番目には、マルチメディア社会への変容です。
 ここ数年、郵政省の電気通信政策に関連する委員会や審議会に所属させられ、少なからずマルチメディア議論に参加している経験からして、21世紀の社会は、その程度の認識に差はあれこそすれ、まず間違いなく、マルチメディア社会へと突き進むであろうと思います。
 この2年ほど、同省のマルチメディア社会への対応に関連する様々な問題を洗い上げる研究会がございました。その調査研究過程で、欧州(ロンドン、パリ、ボン)の対応と状況を、直接ヒアリングする機会を得ました。 また、異なった領域(エンジニアリングや法律など)の先生方との議論をすることもできました。そこから得た現況把握は、マルチメディア社会というものは、いったいどんな社会なのかという確固たる姿は、いまだ見えないということでした。しかし、他方、そういう流れに着実に向っていることが確認されました。
 そして、先日、その委員会が終了し、新聞に関連記事が掲載されました。ある新聞のタイトルは、「ユニバーサル・サービスの概念が変わる」というものでした。
 ユニバーサル・サービスというのはどんな概念かと申しますと、伝統的には、電話と鉄道で考えてみますとわかりやすいと思います。例えば、電話であれば、離島であろうが過疎の村であろうが、都会で享受できる音声通話サービスは、あまねくどこでも同様に利用できるものでなければならない。電気通信政策は、そのように実施していかなければならないということです。戦後、NTTは、そのような理念の下に、全国に電気通信設備を敷設してきたわけです。鉄道についても、同様の理念が生きていたわけですが、残念ながら、国鉄はこれを放棄しました。国によるユニバーサル・サービスの保証ではなく、民営化による競争経済社会の活動にその理念を埋没させてしまったわけです。
 ところで、マルチメディア社会のユニバーサル・サービスについて、同委員会は、これを「情報化の利点、地方も公平に」(平成8年5月27日、朝日新聞)という概念にまとめました。すなわち、マルチメディアによって想定される多種多様なサービス、たとえば、遠隔地医療、遠隔地教育、テレビによる公共サービスなどは、大都会の人々が受けるのと同様に、全国津々浦々、平均して公平にサービスを供給できるようにしようというのが、新たなユニバーサル・サービス概念です。そして、そのための資金は誰が負担をするのかという話ですが、委員会では、イギリスがすでに実施しているように、事業関係者がファンド(基金)を拠出していくことを提案しているわけです。そこまでの手当てを構想したマルチメディア社会が眼の前に迫っています。
 マルチメディア社会の構想は、光ファイバーの敷設と重要な関係をもっています。従来の銅線による通信ケーブルを、究極は家庭まで光ファイバー化(FTTH)することを想定しています。このような設備は、膨大な投資となることはいうまでもありませんが、また他方、銅線とは比較にならないほどの通信キャパシティを生み出すことになります。単なる電話通信だけに使用するわけにはいきません。コンピュータと結合させたデータ通信、パソコン通信、インターネット、またテレビと結合させたビデオオンデマンド、さらには電子マネーなど、良きにつけ悪しきにつけ、社会生活を変革させる各種のサービスを可能にします。企業経営に対しても、明確な形で、その経営戦略の転換を迫ってきます。
 いずれにしても、新しい社会を模索するとき、マルチメディア社会への動向を無視することはできません。建設産業についても、然りです。
 直接的には、公共投資としての情報化投資の動向に注視していくべきでしょう。
 いわゆるインフラ投資は、大きくは3つに区分されるように思います。最も早く具体化していったのは、周知のごとく、運輸・交通インフラです。この経済効果についてはデータを示すこともなく、国の公共事業政策の根幹をなしています。第2は、エネルギー事業へのインフラ投資です。 ただし、これは、従来の電力用ダム建設から、原子力を含む新たなエネルギー事業への転換等、抱える問題は小さくありません。ここで申し上げたかったのは、今後のインフラ投資の主力が第3の情報化投資に向けられていくことです。コミュニケーション・ネットワークの形成に多くの投資が振り向けられていくことが、マルチメディア社会の前提となります。このことは、公共的投資ばかりでなく、民間活力の動向にも注目していくべきでしょう。
 マルチメディア社会が建設産業へどのような変革を迫っていくか、建設業界の中からの問題提起を期待しています。

■ (2)リサイクル型社会(環境共生型社会)

 2番目はリサイクル型社会です。このリサイクル型社会というのは、環境との共生型社会ということでございます。実は、私は、7、8年前、廃棄物処理に関連する設備を見にいこうということで、ある団体のコーディネーターをいたしましてアメリカに行きました。何故アメリカに行ったかといいますと、アメリカの友人の一人がその先端の工場をやっていましたので、建設業界の方も結構いらっしゃいましたが、企業の方々とご一緒に行ってまいりました。
 そこでは何をやっていたかといいますと、地方公共団体からの委託によって、まず地域のゴミを回収します。日本ですと、公共事業体がみな回収してくれます。これも、恐らくこれから変わると思います。ゴミを回収するということは、われわれ家庭も企業も無料ではなくなる可能性が非常に強くなってくると思います。やはり、社会におけるいろいろなコストの負担をお互いに持合っていかなければならないということが、これから必ず顕在化してくると思っております。
 そのゴミ処理を、アメリカでは個人の事業体としてできるわけです。ゴミ処理事業会社で上場している会社があります。その会社は、ゴミ回収をして、その手数料は、もちろんもらうわけですが、それだけではビジネスになりません。それをどうするかといいますと、これを大きな工場の中で燃やすわけです。今では目新しい構想とはいえませんが7、8年前ですから、日本にはまだそんな工場はありませんでした。最近は、電力の卸売りとして注目されてきました。ゴミを燃やして電力にするわけです。日本では、エネルギーが出るような形のものがまだ発達しておりませんが、そこではゴミ処理を請け負ったコミュニティに、供給できるような電力をつくり上げるわけです。ただ、ゴミですから、その他燃えないものもあれば、灰が出てきたり、カスが出てきたり、いろんなものが出てくるわけですが、その中から、例えば灰などを固めて建設資材にするということも行っております。ほとんどのゴミを、新しい製品もしくはサービスにしてしまうという形の工場を見にいったことを、今、思い出しております。いずれにしても、環境との共生型社会、これはリサイクルという発想の中から出てくるのではないかという気がいたします。
 人間の体でいえば、動脈というのは、人体を活性化する大事な血液ですけれども、要らなくなった血をしっかりと心臓に戻す静脈の役割というのも、見捨ててはいけないわけです。これからは人間の血液と同じように、動脈から静脈に戻り、また静脈から動脈に戻り、こういったリサイクルの発想を重視して、産業の再編成がなされてくるということは、まず間違いなさそうであります。
 こういう視点から、環境共生型産業の在り方というのが、かなり注目をされております。日経新聞によると、環境関係の産業というのは、2000年には20兆円を超えるのではないかということもいっております。具体的にどういう産業があるかということについては、恐らく皆様方のほうがご研究されておられるところかと思います。最近の新聞に、東京では「廃棄物ゼロの町」というのが結構現れてきています。
 また、例えば、神奈川県の藤沢では、ある大手企業が建設した建築物というのは、肥料から何からみんなリサイクルしてしまう、そういう設備をつくるというイメージ図が出ておりました。これからは自分たちが社会に負担をかけるような行為を─戦後は、そういうことを国あるいは地方公共団体がやらなければならなかったわけですが、これをみずから全部処置していくという形、リサイクルの形に組み替えていくという発想、思考が大切だという気がしているわけです。

■ (3)自由競争・自己責任型社会

 第3には、自由競争・自己責任型社会を挙げたいと思います。これは、規制と規制緩和問題と深い関わりがあります。
 行政による規制というのは、戦後の社会をここまで持ち上げるために本当によくやってくれた、と私は評価いたしております。今でこそ、官庁行政を批判する風潮が強くなっていますが、そのことと過去の業績評価とは別ものです。日本の社会が未成熟の部分を抱え、戦後を抱えていたからだというふうに理解をすれば、それはそれなりによくやってくれた、そのように理解をするほうがスマートではないかという気がするわけです。
 しかし、これからはという場合、官庁の仕事を維持するために、官庁自らがその紐を切りたくないということで政策を堅持するようなことがあるとすれば、それはお粗末です。あるいは業界が社会全体を見渡したとき、もうその規制の紐は要らない、あるいはあってはいけないという場合においても、業界がその紐を大事にするために、このしがらみを維持しようとするのは、やはりエゴでしょうね、と私は申し上げたいのです。これからあるべき姿というのは、社会全体、ビジネス産業社会全体がどう動いていくかを見据えていく姿勢を重視しなければなりません。その姿勢から見てやむをえざる規制は残るけれども、その他の規制については、原則として自由化すること、自由競争社会をつくること、この思考が不可欠だと思います。
 私は、規制ということにも無駄があるけれども、競争にも大いに無駄があると思います。自由競争社会をつくれば経済社会はうまくいくかというと、とんでもないと思うのです。競争の中には、非常に大きな民間のエネルギーが要るわけです。そのエネルギーをうまく消化できない部分というのが、必ず残ってきます。しかし、今ここにおいては、規制の無駄よりも自由化を選択し、競争することの無駄のほうが、21世紀には役に立つ、そのエネルギーのほうが大いに役に立つだろうという気がするわけです。
 規制社会の在り方というものをどのように考えたらいいか、これは建設業界というある意味では規制に守られていたかもしれない経済社会に所属している皆様がお一人お一人考えて下さい。しかし、この問題の根幹に係る部分は、必ず変化すると確信しています。その変わる部分をしっかりと見据えてどうするかということを、是非考えていただきたいと思います。実は、このことは私どもの教育社会も同じです。ご承知のとおり、大学というのは、まず1、2年生に一般教育をやりましょう。そして、3、4年生から専門教育を、という仕組みになっていました。しかし、一般教育と専門教育というのは、実は4、5年前になくなりました。文部省による教育社会に対する規制が大きく変化したのです。そこで、弾力的なカリキュラムをつくることにいたしました。私は、青山学院大学の経営学部の中で、その改革の仕事をさせられまして、大幅に考え方を変えることを断行しました。カリキュラムの構成を、1年生から専門に進むための基礎をやる方向に転換しました。しかし他方において、弾力化もいたしました。経営学部だから経営学だけを勉強するというのでは専門バカになってしまいます。そこで、今までの一般教育的な発想の講座の視点をかえて、社会を見るというような視点から、また外国文化を知るという視点からも講座をつくりまして、いろいろと変えてしまいました。
 このような現象は、自由競争の一つの具体的ケースです。大学間の競争がはじまったのです。他方、文部省は、大学に自己点検という概念を強制しました。つまり、自分でやったことは自分で点検しろということです。したがって、現在、文部省に対して届け出る書類は少なくなりましたけれども、大学内では各部署から何冊もの自己点検報告書が出てきます。例えば、学生が、私の講義をどう思ったか、ということを全部アンケート調査して、その結果を報告書にする、などです。
 これが自由競争・自己責任型社会の現実的現象です。自由競争化は、一方において、自分たちで責任を持たなければならないという責任を強制してくるものです。規制はありがたかったかなと思うこともありましょう。私どもは規制のよさと、規制緩和のよさというものを、これからしっかりと見据えていく必要があるような気が致します。

■ (4)高齢化・少子化社会

 最後に「新産業社会への変容」という項目の中で、われわれが忘れてはならないことは、高齢化社会への方向だろうと思います。そして、反面において、少子化社会がそれに付随します。少子化の動向として身近な切実な問題は、大学の受験者人口がしだいに減少し、2000年にはピーク時の半分になってしまいます。なおかつ、現在でも出生率は、夫婦2人に対して1.5くらいだと聞いています。大学の受験人口の話で子供をつくれというのもえげつない話ですが、人間社会形成の本質からして、出生率の低下は無視できません。このことは価値観の問題として大いに議論すべきことと考えます。
 少子化はさておき、高齢化を直視してみましょう。私も高齢化の社会の恩恵を受けたいと願っております。しかしながら、その社会を想定した社会システムは全く手つかずの状態です。現在の年金制度は、恐らくこれからみな崩壊するでしょう。私は私学共済に所属しておりますが、共済制度は、行く行くは統合化してくることでしょう。最終的には国民年金も統合してくるでしょう。これは公平性という意味においてはやむを得ないところですが、あくまでも採算が取れないからそういう方向に持っていくというのでは、何ともさびしい政策です。政策論として、もっと本質的に、抜本的に大いに考え直していかなければなりません。新しい世紀には新しいシステムを考えていかなければならないというのが、私のつくづく感じるところであります。
 少子化は少し悲しい現象ですが、高齢化は素晴らしいことですから、私たちはこれを取り込んでいく社会システムをつくっていかなければなりません。では、おまえにいい案があるのかといわれても、答に窮します。介護保険の話でごまかすわけにはいきません。しかし、私たちは少なくとも、この先20年、30年、ビジネスの社会に関わりをもって生きていくからには、それを全部取り込んだ形で仕組み(システム)をつくっていかなければなりません。それは各業界からみな考えていかなければならないわけです。また、業界レベルではなくて、業界を横断するような発想の中で考えていかなければならないことも多く存在します。先ほどの環境との共生とも関係しますが、ネガティブな発想では、これからの社会というのは苦しい社会になるだけだろうと思います。これからくる社会をしっかりと見据えて、これをポジティブな目で見て、考えていくことこそが、本当のビジネスではないかという気がするわけです。

■ 2.建設産業の行方

 それでは、新しい産業社会への変貌を模索している環境下で、わが国の建設産業は、どのような道を歩もうとしているのでしょうか。
 建設業界の中で、毎日毎日、汗をかいて、血みどろになってご苦労されておられる皆様の前で、私が話すことは何もないとは思いますけれども、外から見た目、あるいは他の産業とのつき合いの中から比較した目ということで、建設業界に関して感じるところを少しだけお話しさせていただきます。
 これまでの社会の進展度合を見てまいりますと、まず第一次産業が発達したということはご承知のとおりであります。いわゆる工業化社会以前ということになります。そして長い間、ついこの間まで工業化社会であったわけです。この工業化社会というのは、まず間違いなく大量生産が勝利する社会です。しかし、それは需要というか、市場のパイというものが残っている間は、そういう競争で勝てるわけです。製造業の中でも、家電メーカー、自動車メーカーなどが、その典型的な産業であったことは言うまでもありませんが、実は建設業も工業化社会の一つの産業の典型でしたし、現在もその現象が継続しています。
 さて、これからは情報化社会、脱工業化社会などといわれています。先ほどのマルチメディアに関連して申し上げますと、これからはネットワーク産業であるとか、知的情報産業が中心となり、コミュニケーション重視型社会が到来することが指摘されています。今までの工業化社会からの脱皮ということは、もうすでに始まっているわけです。そして、多くの産業がそれに向けて方向転換をはじめています。だからといって、製造業がなくなるということを申し上げているわけではありません。そうではなくて、製造業の在り方というものが、いわゆる工業化社会の理念や価値観でもって成立していくという形ではなく、新しい社会への在り方を取り込んでいった形に変貌していかざるをえないと申し上げています。行動の根拠として、情報の存在とそれを活用しようとする人の知性に依存する度合が、急激に上昇するであろうことを強調したいのです。そういう産業をつくり上げなければならない。
 では、建設産業はどうでしょうか。
 元来、建設業は、規制との深い関わりをもった産業として守られてきたと思います。国のインフラをつくっていくという大きな使命との関係で守られたということです。しかしながら、公共投資に依存する建設産業は、大かれ少なかれ、そして遅かれ早かれ、社会変革の大波に襲われることになると思います。これから、建設業界がどういうふうに変わっていくのかということについては、脱工業化という理念を取り込みながらお考えいただきたいと思います。
 工業化からの脱工業化への理念の変換には、いろんなものがあります。個性についていえば、今まで規格化されてきたものから多様化されたものへの進展、あるいはニーズについてはみなが同時にニーズを感じるという時代から、いつでも随時に自分の好きな時を選ぶといった方向へ移動しています。先ほど申し上げましたビデオ・オン・デマンドもその一例です。このような随時化、分散化、小規模化、あるいは地方分権化等いろいろな現象が迫っています。
 (財)建設業振興基金では、平成7年末から、建設業経理の見直しを企図し、私はその座長として、いろいろと勉強させていただいております。その過程で、多くの関係者の方々から建設産業のいくつかの特徴を強調されました。まず、建設業は請負産業である。そして、重階層生産をしている。スーパーゼネコンから小さな個人経営の工務店まで55万社くらいの大所帯である。トップの上場企業というのは百数十社しかない。あるいは労働集約型、公共工事依存型の経営である。あるいは一品生産で標準化が困難である。
 こういったお話をよく聞きます。これが経理の世界にも持ち込まれ、それだからこうしています、ということをよく言われます。例えば、製造業でしたら材料費、労務費、経費の3区分に対して、建設業の場合は、常に外注費という概念が入ってくるのは、こういった重階層生産組織の中での特徴がそこにあらわれているというわけです。しかし、このままでよいのか、こういう形でもって進むべきかどうか、という視点での議論はあまり聞かれません。単純なことについてももうそろそろ見直しがあってもいいような気がいたします。
 いま一つ例を挙げますと、請負産業の特性から、建設業では、積算という技術が、他の産業に類を見ないくらい進んでいます。私の専門用語でいうと、事前にコストを持つということです。このようなことに全然無関係の産業は他にたくさんあります。コストの計算というのは、事が終わってから計算して、貸借対照表と、損益計算書の関係でつくれば済むという業界はたくさんあるのです。これに対して、建設産業は幸い請負産業や、公共工事依存の体質から、積算という作業が非常に精緻に実施されています。しかし、残念ながら、このデータは他の目的に活用されていません。こんないいものを持っていらっしゃるのですから、さらにこれを活用されまして、原価管理問題、その他いろんなイノベーションの中に取り込んでいく必要があると考えています。
 最近、リ・エンジニアリングという言葉がよく使われております。リ・エンジニアリングというのは、別な言い方をするとプロセス・イノベーション、すなわち既存の行動を見直すということだろうと思うのです。今までは、どうしても前提として過去になるものをそのまま取り入れるという思考でもって生産形態が維持されてきました。しかし、そういうふうにしてきた産業というのは、ほどなく衰退して競争の場では力を養うことができない状態になっていくというのが現実の姿であります。
 建設産業の特徴というのは、みなさんのほうがよくご存じです。その特徴が逆に裏を返すと、場合によってはこれらの首を絞めることになるかもしれないという気がするわけです。今後の建設産業の在り方について、以上のような特性を熟知された皆様方の方から、こうあるべきだというものが持ち上がってくることが大いにあってしかるべきという気がしてならないわけであります。
 私の使命としては、今までの建設業経理の中で行われてきたところのマイナス面について、これから遠慮なく、外科医ではありませんがメスを入れさせていただこうと考えています。しかし、これは建設業界にダメージを与えたいためではありません。建設業界のリストラクチャリングが、日本経済の再生の起爆剤になると信じ、あえて建設業界の内部に申し上げたいわけであります。そこで、みなさんから大いに反発、反論をしていただきたいと思います。その中からいいものが必ず出ると確信しております。

■ 3.トップ・マネジメントの資質

 最後に、建設業界に向けてというだけでなく、新しい形での社会に立ち向かうときにという視点から、トップの資質について簡単に触れて締めさせていただきたいと思います。
 随分古い話ですが、トップ・マネジメントはどうあるべきかに関して、3つの資質というのがありました。この資質の表現には、スキルという言葉が使われました。1番目にはTechnologicalSkilです。トップというのは、経営をする、管理をするテクニックを持っていなければならない、これを勉強してほしいという意味です。これは、学習して向上する技術なんですからスキルそのものです。しかし、もうあと2つの要素、Human Skil、Conceptual Skilには異論があります。スキルという言葉はテクニックの類語であって、この場合には適切ではありません。私は最近はセンスという言葉を好んで使っております。人間というのは、トップであろうと、なんであろうと常にSensitiveであるということが、行動の方向性を決定するような気がするのです。Sensitive、何と訳すのでしょうか。感受性がよいというのとは少し異なっている感じがしますけれども、なにしろSensitiveであるということです。いろんなことをすぐ感知する能力を持つということです。例えば、自分の組織の中の方たちが、こんな意見を言ったというときに、その人が何を言いたいのかをすぐ取り込めるだけのセンスを持っているかどうかということだろうと思います。そういう意味で私はセンスという言葉のほうが好きなのです。日本でセンスというと、少し違う言葉として使われますが、そんな意味で使っているんだということをお知りおきいただきたいのです。
 2番目のHuman Senseというのは、人間関係の中で尊敬されるというか、組織の中で、あるいは組織だけでなくて、クライアントからも、あるいは他の関係するところの人たちからも、人間として好きになれるような人でなければならない、といった意味でしょう。しかし、ビジネス社会の維持は血みどろですから、憎まれることは幾らでもありましょう。しかし、それは業務に望ましい方向づけをする努力の一形態です。それが人間性の否定に結びつくか否かとは別問題です。ビジネスは自分の信念に基づいて人間性としては、自分自身に自信を持つようなレベルアップをする不断の努力をしなければならないと思っております。
 第3のConceptual Senseというのは何か。私は、コンセプトという言葉を好んでいます。コンセプトという言葉を学生の前で使うと、これを言葉の意味と思ってしまう人がいるのですが、それは違います。日本では概念と訳されると思いますが、コンセプトというのは、すぐに全体像をつかみ取る力ということだと思うのです。概念の「概」はおおむねです。詳細はいいよ、細かいことはいいけれども、全体像をすぐつかむということです。これはトップの資質として非常に重要なものだろうと思います。
 以上の3つが、過去の経営学研究で取り上げられたものですが、私は最近、もう2つをつけ加えております。
 Global SenseとCreative Senseです。グローバルなセンスというのは、極端にいうと、宇宙的なとか、国際的なという発想に結びつくわけですが、それは場所的な問題ばかりではないのです。グローバルな発想というのは、現在、置かれたところの世界を破れるかどうかという意味に使っていただきたい。そういうセンスを養うということです。しかも、なおかつ、クリエイティブでなければならないということです。この2つのバランスはトップにとって非常に大事な資質であります。 5つの資質について申し上げましたけれども、この中で3つ自信がある方はマネジメントができると思います。マネジメントというのは、私どもの専門用語でいうと管理ということですが、これはできると思います。4つ自信がある方、これはエグゼクティブになれるだろうと思うのです。一般的にいうところのトップの経営者はエグゼクティブというわけですが、これからの時代はどうしても何かそこにプラス・アルファのセンスを加えていく必要があると考えます。このエグゼクティブを超えたトップ・マネジメントになっていかなければならないような気がするわけです。フランス語でいうアントルプルヌールなどもその1つかもしれません。そういった発想を経営者の資質に加えながら、新しい社会へ向けて、努力していただきたいと願っている次第でございます。

■ 結びとして

 私は、アメリカへ行くのが好きでございます。その理由は、アメリカの社会が好きだとか、日本がいやだということではなく、価値感の対照的相違に興味があるからです。実は、私は日本がものすごく好きなんです。ただ、ずっと日本にいますと、日本の悪いところばっかり目を向けてしまい、日本の良いところに目を向けるという気持ちがだんだん薄らいできてしまいます。それで、アメリカにたまに行くわけです。アメリカと日本の価値観というのはちょうど逆と言えるものが多くあります。例えば、日本でセミナーをした場合、私が質問をどうぞということを申し上げても積極的にこういうことは違うんじゃないでしょうか、こういうことを先生はどう思いますか、と食ってかかるような場はほとんど日本にはございません。しかしながら、アメリカの学会などにいきますと、しゃべっている途中で手を上げて、「NO」といって自分の意見を言う人が結構いるんです。そこまでがいいかどうかは別ですが、いずれにしても対照的です。私が申し上げたかったことは、アメリカに行きますと、一時的にはアメリカのそういうよさをエンジョイいたします。けれどもしばらくいるとアメリカのいやなところが目についてきます。そうすると、日本のよさが浮かび上がってくるんです。そして、日本に帰ってきて日本人でよかったと思ってまた働く意欲がわいてまいります。
 日本人は本当にいいな、日本という国がいいなと思いながら日本の高齢化社会で私も元気よく働かせていただきたいと願っているところでございます。
 ご静聴どうもありがとうございました。

■ 講師紹介 :青山学院大学 経営学部・同大学 教 授 東海幹夫先生

演題:

「新しい産業社会と建設業」について

講師:青山学院大学 経営学部・同大学院
(コストマネジメント論担当)
教 授:東海幹夫先生
1944年 東京都生まれ
建設業経理事務士(建設大臣認定)検定試験委員
財団法人建設業振興基金 経理研究会座長
大蔵省公認会計士第2次試験委員
郵政省電気通信審議会専門委員
日本管理会計学会理事